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               川柳講座開設             資料提供 友人 久保田 成昭氏
              はじめに(川柳の生立)
 どんなに辛くせつない時でも,ユーモアは決して見失わないようにしたいもの.
『人を哀しめたり怒らせたりするよりは,笑わせる方がはるかに快適な生き方である』、それは,生きている人間にとって笑いがとてもいいことだからです.
 さて,一般的に,江戸文学が強い笑いの要素を有しているといわれていますのは,それ自身が明朗で闊達であるばかりか,あけすけで庶民的な文学だからだといえましょう.なかでも,もっとも庶民的で,もっともユーモアと風刺に富んだ文学は,『俳諧の落とし子としての川柳』といえましょう.
 実は,俳諧も始めは滑稽を看板として出発した民衆詩だったのですが,芭蕉の出現によって『さび』とか『しおり』とか,すっかり反社会的で優雅な自然詩に作り替えられてしまいした.そうなりますと,自然なんぞは酒の肴としか思わず『おつにすます』ことの嫌いな江戸の庶民は,もう,それについて行けなくなったのです.そのような江戸庶民の要求に応えて,俳句と同じ5・7・5という短詩形式で,いいたいことをいわせ始めたのが『初代柄井川柳(からいせんりゅう) という人』でした.
 江戸浅草の名主であった彼川柳は,習い始めの頃は俳諧をやっていましたが,40歳をすぎた頃から,前句(まえく ) を出題しては,付句(つけく ) を募集し選評するという前句付の点者となりました.ところが,その選評がとても優れていましたので,いつの間にか彼の選評した前句付を『川柳』というようになり,今日にまで延々と及んできたわけです.
 彼が選んだ『俳風柳樽(はいふうやなぎだる)』初編は,明和2年(1765年) に出てい
ますから,狂歌や漫画文学の黄表紙など,軽妙な機知と洒落と風刺を欲しいままにした江戸戯作 (げさく) として,その成立や流行を共にしてきたといえましょう.
 狂歌はインテリ向きで手が出ない.黄表紙は,性に合って面白いが人の書いたものを読むだけだ.そこへいくと川柳は見慣れ聞きなれした俳句形式で,季語などというやっかいな取決めもなく,自分たちのいいたいことを,今なら葉書1枚くらいの手軽さでいえるのだから全く有り難たいものだと,彼ら庶民は受け入れたのでした.
 正に水を得た河童(魚?)のように江戸時代の庶民は,彼らの好きな人間とその生活・風俗を戯画化し始めました.オーソドックスな漫画がそうでありますように,彼らは一切虚偽虚飾をひっぺがえして,素っ裸の人間や人生をお目にかけようとしたのでした.
 セックスとてもその例外ではありません.いや,それどころか両性の協力によって成り立つ性交によって存続しているのが,それ私達の人生,そしてその社会.
 ところが,そのことを気取って素知らぬ顔をしがちな人々の世の中だけに,彼らは好んでその機微(きび)を探り,喜びや悲しみや悶えなどを率直に,川柳を介して指摘し始めたのでした.その結果,性器はもとより閨房の秘戯に及ぶこともしばしばとなったのです. にもかゝわらず,それには直接に官能を刺激する嫌らしさや湿っぽさがないばかりか,かえって微笑,苦笑,哄笑を誘って止まなかったのです.何故でしょうか.それは,なによりも先ず,彼らが対象そのものを彼ら自身から突き放し,それらを客観的に眺めているからにほかないからでありましょう.
 ◎ 遠くから 口説くを見れば 馬鹿なもの

 当人が大真面目であればある程,その様子を端から見ればなんとアホらしいことかということを江戸の庶民は,チャーンと良く知っていたのです.その上,彼らはそのものズバリの直接的な表現をさけるのです.

◎ 歯は入れ歯 目は眼鏡にて こと足れど

 ?!すると何か1つ足りぬ物がある.とすると何だろう?ということになり,色いろ調べてみると,古来,老いの衰えはやがて,歯・目・魔羅(まら・PENIS)の順序で訪れるという学説があるということが分かるのです.なるほど最後のあれだけは目や歯のように,ほかの物質をもって補強するわけには『いかんわい』ということになります.そこではじめてニヤリとする段取りになるのですから,猥褻(わいせつ) だとか嫌らしいとかいう騒ぎではありません.正統の文学が決して触れようとしない人情とセックスの機微をとらえ,しかも,洒脱な表現で人々を笑わしてくれる『川柳』は,19世紀の日本人の風俗習慣や性生活を如実(にょじつ) に伝えているだけでなく,裸にしてしまえば昔も今も人間はみな同じであるという実感に溢れているだけのものです.
 現代も日本人の大部分を占めている庶民の,時代を超えた笑いがここにあるといえるでしょう.

セキレイの教えを例にとりますと,

 ◎ かよう遊 ばせとセキレイ ピクつかせ

 天地開闢以来,男神・女神が最初のはじめての行いだから,どうしてよいやら皆目見当がつかないと,途方にくれておられるところにセキレイがヒューと飛んできて,尻尾をピョコピョコと動かして見せました.なるほど,あゝいう風にしていたせば良いのかと悟られ,おふたりは成功( 性交) なさったと日本書記には書いてあります.

 動物は教わらなくても本能だけでアレが出来ますが,人間はなまじ分別があるだけに,ついツイ,もたつくのです......
    
        導入編 お江戸の春 (門 松)

 門 松

 ◎ 三味線と 鼓は江戸の 飾り物  (三味線・しゃみせん/鼓・つづみ )

 現在のお正月は,門松(松の小枝や輪にしばった竹)を門口に立てたり,それを紙に印刷したものを玄関扉や門柱に貼りつけたりする『けち』な時代になりました.が,それに反して江戸時代の門松は,とてもとても豪勢なものでした.
 もともと,門松は平安時代の中期頃 (1100〜1200年) に貴族社会で立てられるようになりました.それ以前は門口には松を立てかけるのではなく榊(さかき )を飾りつけていたのでした.それが段々と貴族の間から民間に拡がり,さらに庶民の間では竹やシダ,ユズリ葉をそえたシメ縄を飾る様になり変わって来たのです.その時点は室町時代 (1688年) 以後とされています.
 江戸時代 (1603〜1867年) になりますと,町人社会が益々栄えてきましたので縁起を担いだり祝ったりすることが多くなりました.そのため飾りが一層豪華になり,殊に,大名屋敷の多い江戸では色々趣向をこらすようになってきました.
鍋島家(九州の佐賀藩)では,ワラで鼓の胴を作って門松の上に飾り付けました.特に豪放なのは三味線堀の佐竹家(秋田藩)で,門松の代わりに人飾りといって,多くの中間(ちゅうげん ) の中から体格のいいのを選りすぐり,その中間を家の門口の左右に五,
六人ずつ並べて立たせたものでありました.袴(はかま )の股立ちをとった厳 (いか) めしい中間が,ひとかたまりずつ,作りつけの武者人形のように右と左に突っ立っている様は,いかにも大名の門口らしい,又,大江戸の春らしい風景ではありませんか.

 そこで,江戸を贔屓(ひいき )する江戸の庶民は書き出しの主題句 (川柳) を詠み,

 ◎ 三味線と 鼓は江戸の 飾り物

と洒落(しゃれ )たわけであります.

   川柳講座 第一章 お江戸の春(姫始め) 

 ◎ かかあどの 姫始めだと 馬鹿をいい

第二次世界大戦後, 神武景気, 岩戸景気, バブル景気と年を経るごとに, お正月ともなると娘さん達の和服姿が随分と目につく時代があった. もっとも, 最近は若者の気風がナウイためか, それとも景気が芳しくないためか少し下火になりつつあるやに見受けられる. それでも島田や結綿のカツラも軽いのができて来たので, これからは増えていくのではないかとも思われる.
やはり, 麗しの日本女性は年に一度ぐらい仕事着を脱いで着物を着て美しくなってもらいたいものである.
 ところで, 今の着物を小袖と言うのは何故だろうか. それは中世まで礼服の大袖の下に着るものだったからだといわれている.
江戸時代に入ってその下着が独立し, 織り方や染色にも工夫が凝らされ小袖着物となり今日に及んだともされている.
だから, アノ, 世界で一番美しいノーパンティで身に着ける着物が, 元はと言えば下着であったかと思うと, 一寸, 味な気持ちになろうというものである.
 そこで,

◎ 松の内 うちの女房に ちょっと惚れ

という上の句が詠まれることにもなるわけである。

内の女房もマンザラ捨てたもんじゃないという程度ですめば風流と申すほどのこともないのだが, 『姫始め』といい出すものだから捨てておけなくなるわけである.

新年の事始めにも昔は色々あったが, 正徳五年 (1715)頃になると近松門左衛門作の『大経師昔暦』にあるように,
「湯殿始めに身を清め, 新枕せし姫始め」
ということになり, これだけでもおおよそ、その見当はつきそうというものである。

天和二年(1682)の暦には
『正月一日・吉書よろずによし. 同月二日・姫始め, 神代の昔よりこのこと [恋知り
 鳥の教え] 男女の悪戯止むことなし』

と, 西鶴も『好色五人女』でいっている。

事実, 昔の暦を見ると元日または二日のところにチャンと『姫始め』と書いてある。

学者というものは今も昔も煩いもので, この姫始めについてもなんだかんだと考証
している.
中でも一番本当らしいのは, 昔は蒸した強飯に対して釜で柔らかく炊いた御飯を姫飯と言っので, 正月にその姫飯を食べ始める行事だという説である. そのほか, 女子が裁縫を始める日だとか飛馬始めで馬に乗り始める日などと諸説フンプンたるものもある.
ところが, 西鶴や近松をはじめ江戸時代の民衆は男と女が初めて情交する日と固く信じていたのだから, ヤボな学者がなんといおうと問題ではない.

 だから, 川柳でも

◎ やかましや するにしておけ 姫始め

と, 詠み決め込んでやっつけているのである.

いかがなものであろうか?致す, 致さないは別として来年のカレンダーから正月の二日の条に『姫始め』と印刷することにしては?

そうすることになると, サラリーマンやBGも, この日だけは, カレンダーをパラリと捲った瞬間, 一億二千, いや, ハイティーン以上のほぼ八千万ぐらいが, 総ニヤリ. それはそれは, 新年あけましておめでとうございます、と和やかな新春を迎えることになるであろうにネ.

 ※ 『大経師昔暦』( だいぎょうじむかしごよみ)  天和( てんな) 飛馬( ひめ)

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